遺跡の発見と調査

  • このページを印刷

遺跡の発見

ピリカ遺跡の発見は1978年(昭和53年)にさかのぼります。美利河ダムの建設にあたっていた北海道開発局函館開発建設部は、ダムの堤防の材料として大量の粘土が必要となり、ピリカベツ川左岸の丘陵一帯で土質調査を行いました。

そのとき、試し掘りの穴の一つから石器が発見され、市立函館博物館に届けられました。石器は旧石器時代のものであることが判明し、周辺が遺跡であることがわかりました。
この美利河ダムの建設により、ピリカ遺跡が存在が初めて世に知られることとなりました。

A地点の調査(1983年)

発掘調査

その後、遺跡の保存と開発に関して話し合いがもたれ、ダム建設には築堤材料となる粘土の採取が必要とされ、やむをえず発掘調査を行うことになりました。
発掘調査は1983・84(昭和58・59)年、財団法人北海道埋蔵文化財センターにより行われました。この調査はA地点・B地点と呼ばれる2ヶ所で、計1,585㎡を対象として行われ、総数11万点をこえる旧石器時代の石器が出土するなど、大きな成果をおさめました。
このことをうけ、函館開発建設部では発掘調査に要する期間や費用を考慮し、この地区から粘土を採取することを断念しました。このことから、遺跡は現状のまま保存されることになりました。

A地点の石器出土状況(1983年)蘭越型細石刃核接合資料(撮影 小川忠博)蘭越型細石刃核と細石刃(国指定重要文化財) 写真:小川忠博

石製首飾り/重要文化財(撮影 小川忠博) 

石製小玉(国指定重要文化財) 写真:小川忠博

今金町教育委員会では遺跡の保存に万全を期すため、1987・1988(昭和62・63)年、遺跡のひろがりを知るための分布調査を行いました。1m四方の試掘坑を等間隔に600ヶ所設定して発掘したところ、遺跡はこの丘一帯の約20万㎡にわたることがわかりました。東京ドーム球場のおよそ4つ分の広さにあたります。

範囲確認調査(1987年)

1991(平成3)年には農地造成にともない、C地点の発掘調査を町教育委員会が行いました。
C地点は遺跡がのる丘陵上で最も高い段丘面上に位置しており、150㎡を発掘し、約12,200点の石器が出土しました。この地点では、長さ30cmにもおよぶ大形石刃が数多く出土しました。

C地点の調査(1991年)

2000~2002(平成12~14)年には史跡整備事業にともない、D地点とE地点(計438㎡)の発掘調査を行いました。ここでは計約46,300点の石器類が出土しました。
なお、D地点の調査は石器が大量に出土する集中部を探しあて、その石器集中部をそのまま現地に展示するために行われました。調査の結果、4カ所の集中部がみつかり、そのうちの一つが石器製作跡として整備され、石器の出土状態をくわしく見学できるようになっています。

D地点の調査(2000年)D地点の調査(2001年)E地点の調査(2001年)

996~2003(平成8~15)年には、国学院大学文学部(東京都渋谷区)が考古学実習の一環として、C地点から北東へ50m離れたK地点の発掘調査を行いました。
この地点では、約120㎡というせまい範囲から約35,000点の石器が出土し、この地点でも石器が濃密に分布していることがわかりました。

K地点の調査(2003年)K地点の調査(1999年)

大量の石器が意味するものは?

ピリカ遺跡でのこれまでの発掘調査で回収された石器の数はおよそ20万点。総重量は800kgに及びます。このピリカ遺跡の丘のうち、実際に発掘した面積はほんの1パーセントにしか過ぎません。いまだわたしたちの目に触れることのない膨大な量の石器が、この丘にはまだたくさん残されているのです。
この大量の石器はいったい何を意味しているのでしょうか?