ピリカ遺跡に関するコラムを週に1回掲載しています。当館宮本雅通学芸員が写真と文でつづります。
これまでの記事
12.マンガンを粉にしてみると・・・
11.まさに何これ?
10.旧石器人にもハンマーの誤り
09.巨大石刃の謎
08.石器づくりの実際
07.片付けることを知らない旧石器人
06.顔パックならぬ現場パック
05.ただの石ではありません、ましてや・・・
04.奇妙なマーブル石器
03.旧石器人が見た石の色
02.ど~してこ~なるの?
01.昆虫標本ではありません
12.マンガンを粉にしてみると・・・
前回は遺跡から出土するマンガン鉱を取り上げ、顔料の材料と考えられていること等を紹介しました。今回はさらに掘り下げ、近くの川で採集したマンガン鉱を粉にしてみたらどうなるかという実験をしてみました(貴重な出土品のマンガン鉱を実験台にすることはできませんからね)。
今回採集したマンガン鉱は、ピリカ遺跡から北へ1.4kmほど離れたニセイベツ川で、ここは明治から昭和30年代まで稼働していたマンガン鉱山があった場所にほど近く、現在も川にはマンガン鉱が数多くあります。
今回のマンガン試料は2020年8月24日、大きさや色味で多様性に幅をもたせて8点ほど採集しました(下写真)。また、台石に使った石は緑色凝灰岩の板状の川原石で、ピリカベツ川で採集したものです。
さっそく、マンガン試料を上から押さえつけながら台石にこすってみると、表面が比較的なめらかで丸みのあるマンガン鉱は、簡単に粉にすることができました。しかし、表面に鋭い突起のあるゴツゴツしたマンガン鉱は、こすっても全くすり減ることはなく、粉にはなりませんでした。
また、前者の軟らかいマンガン鉱は、試料によって粉の色に違いがあり、鉛筆の芯のような黒色からこげ茶色という具合に色調の幅がありました(下写真)。できた粉を指で触ると、いずれもべっとりと吸い付くように付着し、水で洗い流してもなかなか落ちません。このような性質は、これまでに言われていた顔料としての特性とよく一致していると言えますね。
今回採集したマンガン鉱は、簡単に粉にできる軟質とほとんどすり減らない硬質の二つに分けられます。ピリカ遺跡を残した旧石器人が顔料ほしさに採集したのであれば、軟質のマンガン鉱を選んだのだろうと思います。
さて、美利河マンガン鉱山元山地区で昭和30年代まで従事されていた大塚徹さん(美利河在住)に今回のマンガン試料を見てもらったところ、硬質のマンガン鉱を「金属マンガン」、軟質のマンガン鉱を「二酸化マンガン」と呼ぶのだそうです。そしてそれぞれ用途が異なり、金属マンガンは製鉄時に鉄を硬化するための添加剤として需要があり、終戦前まで盛んに採掘したこと、一方の二酸化マンガンは、戦後になって乾電池や鉛筆の芯などで需要が増え、選鉱・出荷するようになったことを教えていただきました。
あらためて、大塚さんとともに遺跡出土のマンガン鉱を一通り観察したところ、二酸化マンガンも金属マンガンも両方確認できました。二酸化マンガンに比べ、金属マンガンの方が量的に多く、より大きいものが目立つ状況です。
顔料に適した二酸化マンガンがあるのは当然として、顔料になりそうにない金属マンガンまでも、どうして遺跡に持ち込んだのでしょうか? これらは顔料とは違う何か別の使いみちがあったのでしょうか? この点については今後の研究課題です。旧石器人の暮らしぶりの解明には、まだまだ多くの課題が横たわっているように感じられます。
なお、今回取り上げたマンガン関係資料は、ピリカ旧石器文化館で見学することができますので、ぜひ併せてごらんください。
【2020年8月27日】
11.まさに何これ?
ズシリと重いこの黒い塊、何だと思いますか~? ピリカ遺跡の西地点(D地点・E地点)で2000年から3年間行われた発掘調査の際、のべ502平方mの範囲から石器とともにこの黒い塊が多数回収されました。合計98個、重さは計4.8kgです。
ピリカ遺跡出土のマンガン鉱
答えは「マンガン鉱」です。私たちの生活の中でマンガン乾電池で知られるアレです。その鉱物が旧石器時代の遺跡からまとまって発見された・・・。「えっ、旧石器人がこれを何に使ったの?」当時の調査員も頭の中はこれでした。すべてくまなく観察しましたが、何ら加工の痕跡も認められません。
実は、ピリカ遺跡の所在する今金町美利河(ぴりか)地区は明治期にマンガン鉱山の開発で大いに繁栄し、最盛期には4年間で計1万トンもの採掘量があったとされています。鉱山は昭和30年代に閉山しましたが、ここの住民にとってマンガンは大変身近な存在であり、付近の川で簡単に採集することもできます。
元鉱山関係者に遺跡出土のマンガンを見てもらったところ、口を揃えて「美利河のマンガンだね」の返答。しかしその次は「何に使ったんだろう~?」の言葉が続きます。
美利河マンガン鉱山
1990年代の終わり、千歳市と帯広市で行われた二つの旧石器遺跡の調査で、事態は大きく動きました。いずれの遺跡からも、表面がすり減った赤色もしくは黒色の塊が多数発見され、色がこびりついた石皿も発見されました。その後の研究でこれらの塊は「顔料」とされたのです。旧石器人が赤や黒の塊を粉末にし、それを最終的に何に使用したのかは未だはっきりしませんが、マンガン鉱は顔料、つまり絵の具の原材料であることがわかってきたのです。
さらに注目すべきことがあります。千歳市の遺跡で見つかった黒色のマンガン鉱が科学的に分析され、その結果、それが今金町美利河産のものであることが判明したのです。
ピリカ遺跡を残した旧石器人は、この地に豊富にあるマンガンに注目し、顔料の素材として集めたこと、そして美利河産のマンガンが道央方面まで流通したことがわかっています。旧石器時代の人々は、私たちが想像する以上に色彩豊かな暮らしをしていたのかもしれません。
【2020年8月6日】
10.旧石器人にもハンマーの誤り
写真の石器は、高さ13cm程度の小形の石核です。頁岩製。少々わかりづらいですが、正面に上から下方向へ何度もたたいて石刃を剥がし取ろうとしたあとがあります。何本かは成功したようですが、中段に大きな段差があり、途中で止まっているのがわかりますか?横からみた写真(右側面)の矢印が指す階段状に突き出ているのがそれです。
この段差は、本来は石刃を下まで剥ぎ取るつもりが、打撃時のパワー不足で剥離が止まってしまったという、いわば失敗例なんですね。私も初心の頃はこういう失敗をよくやりました。しかしこれを旧石器人がやったのですから、「弘法にも筆の誤り」ならぬ「旧石器人にもハンマーの誤り」と言えるでしょうか(笑)。
さて、これだけの大きな段差があると、その次の石刃剥離はまずうまくいきません。そこでこの後は次の対応策が考えられます。
- この段差を取り除いて、失敗をなかったことにする
- 石核の上半部を除去し、上面を段差の高さに合わせる
改めて資料をよく見てみましょう。階段部分にハンマーを当て、何度も段差自体を取り去ろうとしたあとがあります(下写真の矢印の箇所)。
つまり、この作り手は2の石刃の長さを犠牲にするような妥協策ではなく、1の正攻法でリカバーを試みたわけです。しかし、結局この段差を取り除くことも失敗に終わりました。
それでもこの作り手はあきらめなかったようで、上面に何度も強引にたたいたあとがあるのです(写真1枚目)。段差を根こそぎ除去してやろうと何度も何度も試みています。やはりこれもすべて不成功に終わり、つぶれた打撃痕がむなしく並ぶ結果となりました。
この上部に並ぶ打撃痕は、何だか「こうでもしなきゃ腹の虫が治まらない~!」と力任せに気持ちをぶつけたかのような、旧石器人の悔しさを表しているように感じられます。
展示室に並ぶ見事な完成品も良いですが、こうした失敗作も彼らの心をうかがい知ることのできる興味深い資料だと思います。
さて、次回は石器とともに見つかった、正しく「何これ?」という出土品をご紹介します。
【2020月7月30日】
09.巨大石刃の謎
写真はピリカ遺跡出土の石刃とその石核です*。石材は頁岩が用いられています。33cmの高さを生かして長い石刃が連続して剥ぎ取られています。元は推定で長径60cmほどの原石とみられ、その大きさを生かすよう石核が成形されています。
30cmオーバーの巨大なサイズ感と綿密に計算された繊細な技術が同居していて、これを前にした研究者は一様にしばらく言葉を失う。そんな姿を何度も目にしてきました。
まずこの資料から感じられるのは、巨大な石刃を得ることへの旧石器人の異常なこだわりです。ピリカ遺跡の石刃はそのほとんどが長さ10~15cmの通常サイズに収まるのですが、こんな巨大な資料も出てくる(下写真)。この点がピリカ遺跡の特徴の一つと言えるでしょう。
このような巨大石刃を剥ぎ取るには相当なパワーが必要です。私が先週の実演で剥がした石刃は長さ10cmでしたので、少なくともその3倍以上の力が必要です。また、力を受け止める石核がグラつかないようしっかり固定することも必要です。
多くの研究者は、巨大石刃を剥離するのに旧石器人が何らかの装置を使ったのではないかと考えています。1997年、考古学者の松沢亜生(まつざわつぎお)先生を講師に迎え、テコの原理を使った石刃剥離の実験が行われました(下写真)。
テコの原理を利用した剥離装置による実験のようす(左端が松沢亜生氏)
実験は成功し、研究の手応えは得られたわけですが、旧石器人がこのような装置を使ったかどうかはわかりません。しかし、石核の固定と力の一点集中を両立させるには、人力では無理だろうというのが大半の見解です。
そもそも、なぜ旧石器人はこんな巨大石刃をつくったのでしょうか?
この遺跡には多くの謎が残されています。ぜひ皆さんも一緒に考えてみてください。
さて、次回は出土品の中の失敗作を通して、それをリカバーしようと努力する旧石器人のようすを紹介しましょう。彼らをもっと身近に感じられると思いますよ。
【2020年7月23日】
*石刃については前回の投稿に説明がありますので、そちらをごらんください。
ピリカ遺跡出土の大形石刃(YouTube)
08.石器づくりの実際
今回は、「石器製作跡」で行われていた石器づくりの中でも、旧石器文化を代表する石器=石刃(せきじん)を取り上げ、その実演動画を通して石器づくりの主な技術を紹介します。
石刃とはタテに細長い剥片のことで、その元となる石核から同一方向に連続して剥ぎ取ることによって生み出されます。石刃の両ふちは非常に鋭く、物を切るのに適しており、今の道具に例えるとナイフのような使い方が想起されます。動画の最後に割りたての石刃の切れ味も披露しますのでお楽しみに。
今回使う石材は遺跡の出土品と同じ頁岩(けつがん)で、採取地は遺跡の東を流れる上国縫川(かみくんぬいがわ)。道具は砂岩製の川原石と鹿角、木製棒です。前者を硬質ハンマー、後2者を軟質ハンマーと呼び、使用目的により使い分けます。
今回の原石を前にして製作者がまず考えることは、三角錐(すい)の形状を得ることです。主な作業の流れは動画の通りですが、工程②と③の間は行ったり来たりして石核の形を整えます。今回は石刃を2本剥がした時点で作業を止めましたが、その後も続けて石刃を量産するのが本来の姿です。
この技術の特徴は原石から効率よく数多くの鋭利な刃が得られることです。ピリカ遺跡のこれまでの発掘で合計約1,600本もの石刃を回収していますので、彼らがいかに鋭利な刃を必要としていたかがわかるでしょう。また、石材を巧みに利用する高度な技術を有していたこともおのずと想像されます。
さて、今回私が作ったことで直径1mほどの範囲にわたって石器の集中部ができました。約30分の作業で微細な割くずを含めると膨大な量のカケラが生まれるわけです。「石器製作跡」での旧石器人のくらしぶりが少し垣間見えてきたのではないでしょうか?
さて、次回は研究者もビックリ、ピリカ遺跡出土の巨大石刃を紹介します。
○製作者:宮本 雅通(今金町教育委員会学芸員)
○製作日:2020年7月15日
○場 所:ピリカ旧石器文化館裏
現代の「石器製作跡」
続けて石刃を剥ぎ取ったところ(7月21日追加)。この石核からはまだ少なくとも10本は剥ぎとることができそうだ
石器づくりの動画はこちらで公開しています
07.片付けることを知らない旧石器人
前回に続き、展示施設「石器製作跡」の出土状況をくわしく見ることにしましょう。
この展示区域では、石器づくりの際に生じた小さな割りくずも含め、計2万点近くの石器が発見されました。
上図は大小さまざまなサイズの石器をすべて点で表した平面図(上から見た図)です。点が密集する濃い部分を中心に、徐々にまばらに広がる出方をしているのがわかるでしょう。
このような円形の出土状況はこの遺跡に限らず、点数の多少に差はあれど、全国の旧石器遺跡で共通するものです。これは研究者間でおおむね「石器づくりの単位」と考えられているものですが、さらに注目してみると、似たような石材が集まって互いに接合しそうな状況で、まるでつい数日前に旧石器人が作業をしていたかのような出方をしています(下写真)。
どうやら旧石器人は、石器を作って必要なものを得た後、片付けることなく立ち去ったようです。
私たち現代人であれば、地面にこれだけ破片が散乱していれば、危ないので片付けますよね~。なぜ彼らは片付けないのでしょうか?
旧石器時代の後の縄文時代の人々も石器をさかんに作りますが、縄文時代の遺跡からこうした石器の集中部が見つかることは一般的ではありません。それは、縄文人が年じゅう一カ所で暮らす定住生活を基本とし、自分たちの居住エリアをきれいにしようとする意識が働いているからだと考えられます。巣を作って暮らす動物も、巣の中を清潔に保つために清掃することが知られています。
一方、旧石器人は食料源である大型動物を求め、年じゅう転々と移動する暮らしをしていました。巣を作らない移動性の高い動物と同じく、その場が少しでも住みにくくなれば「あっちに行けばよい」という具合に、彼らは片付けることを知らない人々だったと言えるのではないでしょうか。
ぜひ現地でこの出土状況をご覧になり、当時の暮らしぶりに思いを巡らせてほしいですね。
さて、次回はいよいよ石器づくりの実演を紹介し、このような出土状況が生まれた背景に迫ってみたいと思います。
【2020年7月9日】
06.顔パックならぬ現場パック
ピリカ旧石器文化館のわきにある階段を昇りきると、そこは旧石器人の生活の舞台・ピリカ遺跡です。広大な遺跡の西端に当たるこの地点で2000年から3年間発掘が行われ、石器の出土状態をそのまま保存・展示する施設ができました。それが「石器製作跡」です。さっそく内部を見てみましょう。
地表面から40cmほど下の層から石器が出ているようすがわかります。まさにこの場で旧石器人が石器を作っていたということです。これらの石器群の年代は今からおよそ1.5万年前と考えられていますので、私たちは約1.5万年前の遠い祖先が残した石器づくりの工房に立ち会っている、というわけですね。
さて、この発掘現場の展示には少々ユニークな方法が採用されました。下図はその手順を示した断面図です。
石器が密集して出土した8m×5mのエリアを保存展示用として定めると、この時点でいったん調査を止め、石器の出土状況を詳細に記録します。次に石器を取り上げ、地表面全体に液状シリコンをまんべんなく吹き付けます(①)。固まったシリコンを持ち上げると、その下には地表面が薄皮一枚はぎ取られます(②)。さらに下側から固定材をぬり込み(③)、シリコンを取りはずすと最初の地表面が再び姿を現します。これを現地に正確に設置し直し、最後に実物の石器を元通りに配置すれば、この再現展示ができあがる(④)、という具合です。まさに「顔パックならぬ現場パック」ですよね。
ピリカ遺跡の特徴は何といっても石器が大量に出土すること。それを伝えるには現場を見てもらうのが最上という考えからこの施設が整備されました。ぜひ遺跡を訪れ、本物に触れてもらいたいですね。
さて、次回はこの現場から見えてくる旧石器人の暮らしぶりについて考えてみたいと思います。
【2020年7月2日】
05.ただの石ではありません、ましてや・・・
写真の資料を前にしての一コマ。
宮本学芸員「これもピリカ遺跡出土の石器です。」
Aさん「えっ、これも石器なの?ただの石っしょ~」
Bさん「そだね~。いやちょっと待って、これどう見ても男爵イモっしょ!」
事実こんな会話があったように、ただの石どころか今金町特産の今金男爵に間違われるこの石。しかし、これがピリカ遺跡の発掘調査で大量の石器とともに出土したのですから、要注意です。表面をよく見てください。少し突き出た部分につぶれたような痕跡があるのがわかりますか~(下写真)。
この痕跡の状況から、これは旧石器人が石器を作る時に使ったハンマーと思われます。
石器づくりは硬い原石をたたき割る作業です。どうやらピリカ遺跡の旧石器人はこの石が気に入ったらしく、どこで拾ったかは知る由もありませんが、この遺跡に持ち込み、これを振りかざして石器を作っていたようです。付近からはこの他にも同様につぶれたあとがある小ぶりな石も出土しています。
その辺にいくらでもありそうな石ですが、見つかった場の状況が何より重要だということですね。また、手の延長線上で使われる石の道具のことを石器と呼ぶこともおわかりいただけたでしょうか。
さて、次回はこうしたハンマーを含む実際の発掘現場をそのまんまの状態で展示する施設「石器製作跡」の内部を紹介します。
【2020年6月24日】
※今回紹介の石器について
出土地点: D地点
器種名:敲石(たたきいし)
石材名:珪化岩(けいかがん)
大きさ:長径69/短径54/高さ52mm
重 量:261g
掲載報告書:2002年発行『ピリカ遺跡Ⅱ』P.43
04.奇妙なマーブル石器
写真はピリカ遺跡出土の旧石器で、こんなマーブルもようの石器もまれに出てきます。「何これ?」と目がクギ付けになりますよね。この奇妙なもようの秘密を知るには、この石材の成り立ちを知る必要がありそうです。
ピリカ遺跡の石器の多くは頁岩(けつがん)という堆積岩の一種で作られていて、この石器も頁岩製です。頁岩は川の中で流れ下るうちに角が取れて形が丸くなり、また表面が変色することがわかっています。この外側の風化した部分を私たちは「自然面」とか「外皮」と呼んでいます。石器表面にたまたま残る外皮を観察すると、丸くなったものも多くありますので、ピリカの旧石器人は川で拾った頁岩で石器を作っていたんですね。
さて、下の写真は筆者が遺跡近くの川で採集した頁岩を材料に、旧石器人と同じ方法で縦長のカケラを3本はぎ取ったものです。
原石の茶色い外皮の内側は灰色一色になっていて、もとはこのような色の石だったことがわかります。外皮の周辺部分をよく見るとシマシマに変色しているところがあります。そうです、この石器に見られるマーブルもようは外皮に近いところではぎ取られた石器だと考えられます。たまたま現れたこのマーブル石器を旧石器人はどう感じていたのでしょうね?
さて、次回は石器づくりに用いられた道具を紹介します。
【2020年6月18日】
03.旧石器人が見た石の色
写真はピリカ遺跡出土の旧石器です。縦長の剥片で、全体に白っぽい色調です。両ふちに刃こぼれのようなギザギザがあり、その細かく欠けた部分は少し黄色っぽい色をしています。
実はこの資料には発掘時に誤ってスコップで壊してしまった部分があり、それが左上のガジリです。ガジリは業界用語で、当然避けたい事故なのですが、まれに起きてしまいます。下写真はその拡大です。
この割れ口を見ると、青っぽい色をしていて全体の色調とは異なりますよね。旧石器人がこの剥片を割った瞬間は、この青色が全面をおおっていたはずです。それが直射日光や地中に埋っている間の土壌成分等の影響で表面が徐々に風化し、およそ1.5万年後、私たちの前に現れた時にはこんな白っぽい色になっていたというわけです。
さて、ここでちょっとしたデジタル技術を使い、ガジリ部の色を前面に塗り替えてみたのが下の写真です。これが旧石器人が見ていた石の色と思われますが、いかがでしょうか?
次回は、旧石器人も楽しんだだろうと思われる変わった模様の石器を紹介します。
【2020年6月9日】
02.ど~してこ~なるの?
写真は折れた面で3点が連結接合した例です。色の違いで折れた部分がわかるでしょう。これにはさらに下側にも折れ面がありますので、少なくとも4点以上からなり、未発見部分を仮想すると長さ6cm以上の縦に長い資料と見ることができます。
それにしても、元は1点ものの資料なのに、それぞれ表面色にずいぶん違いがありますよね。「ど~してこ~なるの?」と思いませんか(筆者は昭和生まれです)。
頁岩(けつがん)の表面は風化により変色することが知られており、本資料の場合もそれぞれが受けた風化度の違いと考えられます。しかし、同じ資料でも表裏で色が異なりますし、裏面ではこれだけの差がありますので、この資料の本当の色は何なのか?と、作業中に訳がわからなくなってしまう時があります。それでも粒子の細かさや光沢度などといった石質を手掛かりにひたすら分類を続け(下写真)、原石にまで復元するのが最終目標です。
次回は、発掘時に誤って表面を削ってしまったことで露見した石器の本当の色を紹介します。
【2020年6月3日】
01.昆虫標本ではありません
当連載の初回は、一見すると昆虫標本のようにも見えるこの写真を取り上げました。
これらは今金町ピリカ遺跡出土の旧石器時代の石器で、共に出土した石器の特徴から、およそ1.5万年前のものと推定されています。
国内の旧石器時代の遺跡では、こうした石を素材とする遺物=石器が出土品のほとんどを占めています。
さて、これらをよく観察すると、すべて下側に折れている面があるのがわかるでしょう。これらは、元は縦に長い形のものが何らかの理由で折れ、折れた状態で見つかった上半部の資料だけを集めたものというわけです。石材の種類はすべて頁岩(けつがん)と呼ばれる堆積岩の一種です。
次回は、折れた面同士でうまく接合した例をご紹介します。
※2020年5月27日現在、ピリカ旧石器文化館はコロナウイルス感染症対策のため休館しております。この期間、館内では出土資料の復元作業を行っており(上写真)、6月2日(火)からの通常開館後も復元作業の一部を継続していますので、この機会にぜひご覧ください。
【2020/5/27】